2013年2月26日火曜日

1day 涼宮ハルヒは名作だったなあ

1day 

大学生中に小説家になりたかったけれども、就職活動に追われて何も書いていない日々。
毎日何かを書かないと筆力が落ちるとかどうとか昔聞いたので、チラシの裏、便所の壁の様にとにかく毎日1記事以上書いていこうと思う。

とにかく1日空いた時点でこのブログは終了である。


一日目のチラ裏 ~涼宮ハルヒは名作だった~

いきなりサブカルのお話。ひょんな事から涼宮ハルヒのMADを見ていた。自分が中学の頃にライトノベルを読んで、その面白さにどハマりした作品だ。

有名な作品ゆえににわかオタやミーハーの聖書みたいな位置付けになっているけど、最近はそういった話しも聞かず、大学の最近アニオタを開花させつつある後輩に「涼宮ハルヒは観た方がいいよ」といったら「え、名前は聞いた事ありますけどなんですかそれ」という言葉がかえってきた。

もう十年近く前の作品だし、過去の名作というやつになってしまったのかと思うと自分の年齢を恐ろしくも思う。

ハルヒと言えば当時は萌えだのハルヒダンスだのが流行っていた。そしてハルヒのキャラもツンデレの代表格の様に扱われ(ハルヒはツンデレでないという意見もあって自分もそれに賛成)、長門がポスト綾波として地位を獲得していた。

何も東浩紀の様にサブカル論を語りたいわけではない。ただ今になってハルヒを見返してみると、「完成」されていた作品だと思った。

一定のキャラ萌え、一定のSF要素、一定の面白さ。そういったものがバランス良く入っていた。一番好感が持てるのが出て来るヒロイン達が主人公であるキョンに惚れてるか分かり辛いという所だ。惚れているという視点で見れば、ハーレムラノベの様に見える。しかし惚れていない、顔を赤らめても一時の思い違いといった視点で見れば、そうかもしれないと頷く事も出来る(消失の長門は除いて)。 そういった読者の想像に任せる余地を残してあるのもまた「完成」されていると思うのだ。

昨今のラノベではヒロインがベタ惚れだと一瞬でわかる。それを主人公が鈍感や難聴スキルを発揮してハーレムを築いていくのだが、もちろんそういう作品も悪くはないが供給過多である。

しかしなんというかそういうラノベは、奥ゆかしさが無いのだ。例えば有名な夏目漱石の「こころ」で言うと、お嬢さんが先生に惚れているのはわかるけども、そうじゃないかもしれない。Kに取られるかもという不安もある。武者小路の「友情」に至っては、主人公の事好きなのかな?と思ったら全然脈無しどころか邪魔と思われている始末である。

こういった駆け引きというか奥ゆかしさがキャラや物語に魅力を与えるのではないだろうか。(常識的に考えてハーレムラノベのベタ惚れヒロインって淫乱ビッチにしかみえんよな)

情報を開示させすぎているのだろうか。読者層が中高生なのである程度開示させるべきなのはわかる。しかし中高生を舐めすぎではないだろうか。例えば依子というヒロインがいたとして、主人公がヒロインの恋心をくすぐるような言葉を言ったとする。以下がそれに対する反応の比較である。

→ 依子は顔を赤らめもじもじしている。なんだろうか、トイレだろうか。
  「どうかしたのか?」  
  「もう、鈍感なんだから……」

というキャラよりも

→ 依子は唇に指をあて、夕日が射し込む窓に顔を向けた。
  「どうかしたのか?」
  「んーん、どうもしない」

と後者の方が萌えないだろうか。萌えないだろうか。

ともかく言いたい事は「開示させすぎた情報は想像の余地を奪い魅力が無くなる」という事である。

そういった点で涼宮ハルヒはキャラの気持ちだけでなく世界観も想像の余地を残していている。ゆえに名作だったんだなあと今さらながらに思うのであった。

チラ裏終わり。

0 件のコメント:

コメントを投稿