ついに就職で面接というものを体験してきた。この時期に体験するのは遅いのか普通なのかわからないけども早いという事はないだろう。
聞かれた内容は鉄道系の会社だったからかスタンダードな事だった。自己PRや学生時代に力を入れた事、志望動機。
あなたを○○に例えてくださいとか100円を1万円にするにはとかそういう変な質問はされなかったのでやや拍子抜けだったかもしれない。
行く前は緊張して「あうあうあー」とか言ったらどうしようなんて考えていたけども、幸いにもあうる事はなかった。しかし事前準備というか、企業研究が甘かったかなというのはあった。
あと一緒に受けた女子がハキハキしてて面接慣れしてて、それでマナーの点で助かった事もあるけども、やっぱり凄いなあとおもった(小並感)
しかし自己PRを述べさせたり会社に入って実現したい事を述べさせたりするのは、その会社にどれだけ熱意があるか測るというのにはそこそこ有効だとは思うけども、実際どうなんだろうなとは思う。面接も定型化すれば結局のところ練習を積んだ人が上手いわけで、そういうのは受験勉強の様なものと変わらないと思う。つまりは画一的な人間しか生まれないという事。
東○ガスの説明会で面接で一番重要視されている事を教えてもらったところ、「こいつと一緒に働きたいかどうか」との事。これはほかの企業でもなんどか聞いた。同意出来る話だ。ならば面接の様な定型化した方法でなく、もっと親身に、たとえば一緒に飯を食いに行って趣味の話とかをして、それで決める採用もありなのではないか。
と、そういう採用の一例としてリクルーター制度というのがすでにあったりもする。
しかし現実問題学生一人一人と飯を食いにいっているほど社会人は暇ではないので、結局は筆記試験、ES、GD、面接と定型化した方法になってしまうのだろう。
仮にもし自分が役員なり社長なりになったとしたら、最終面接は飯を食いに行ったりしてみたいものだ。
あと余談だけど面接官の手元に自己PRとか志望動機とかが記入されてるESがあるんだけど、それとは別に「では自己PRをしてください」というのはどういう事なのだろうか。書かれた事よりも実際にしゃべっている方が判断が付きやすいというのはあるが、それなら別の質問でいいし、「ESにはこう書かれていますがこれは具体的にどういう事ですか」なんていきなりESの質問に入ってもいい。
ただでさえ短い面接時間なのに時間を有効に使おうとしないのはその企業がそういった体質の企業だという事か。就職難だから学生の立場が非常に弱く人事にへこへこしているが、企業もまた品定めされているという事を忘れてはならないと思う。
実際説明会で「あ、この企業だめだな(感情論でなく品質管理の意識とか)」と思った企業があり、そこの製品を買うのは控えようと思った事もある。
というチラ裏終わり。
2013年2月28日木曜日
2013年2月27日水曜日
2day 過去作の美化
2day
当時はそんなに面白くなかったアニメでも、時を経てMADなどで見かけると名作に見えたりする事がある。
人の記憶が美化されるように、過去の作品もまた美化されているのだろうか。
しかし「美化されているんだ」という意識を持って偏見を捨てて見てみても、やはり面白そうに感じる(完全に偏見を捨てきれていないという可能性は大いにあるが)。
これに関して三つの仮説(要素?)が挙げられる
一つ目は「過去の空気も一緒に味わっているから」である。多くの人がそうかは知らないが、僕は過去の辛い記憶を思い返しても嫌な気持ちにはならない。過ぎてしまった事だし、そもそも嫌な事は忘れやすいタチなのかもしれない。しかし楽しい記憶は沢山覚えていて、思い返すと「あの時は楽しかったなあ」と懐古厨の如く懐かしみ手を伸ばしてみたくなる(これ自体が過去の美化だけども)。
こんな風に過去の空気に触れると懐かしくなるもんだから、過去のアニメを見ると間接的に過去の美化に触れて、そして面白そうに感じるのではないか。
二つ目は「時の試練に耐え残った作品だから」である。そもそも本当につまらない、心に残らない作品というのは覚えてさえいないんじゃないだろうか。そして覚えていたという事は何かしら「心に残る部分があった」という事になる。
時の試練という言葉はどこかの新書で見た言葉で、本来はゲーテとかニーチェだとかそういったはるか昔の書の事を指すのだけど、五年や十年前のアニメに言っても同じだと思う。
三つ目は「自分の変化あるいは成長」である。当時はわからなかった哲学的メッセージだとか、キャラの気持ちを必要以上に想像してみたりだとか、そういった自分の変化によってわかる新たな「魅力」の発見によって過去の作品が面白そうという感想を抱くのだ。
これはなかなかに信憑性のある仮説だと思う。当時はOPで糞アニメと判定し、やべえ見るアニメ間違えたかな……と思うようなキルミーベイベーでさえ、シュルレアリズムを通り越したニヒリズムなギャグだと考えれば、それなりに肯定出来る気がする。
と色々書いてみたけど結局のところ自分が懐古厨なだけなのかもしれない。今でも高校が舞台の教室に夕日が射すような青春小説を書きたいんじゃあ~。当時考えた先輩キャラのヒロインよりも、四歳以上も年上になったけども、あの人は自分よりも深遠な考えを持っていて、今でも導いてもらいたいという気持ちが残っていたりする。現にたまに想像の中で先輩と会話してるけども、やっぱりちゃんと作品にして世に出したいなあって気持ちがあるんだなあ。
後半は本当にチラシの裏になったなあ。今日はおしまい。
当時はそんなに面白くなかったアニメでも、時を経てMADなどで見かけると名作に見えたりする事がある。
人の記憶が美化されるように、過去の作品もまた美化されているのだろうか。
しかし「美化されているんだ」という意識を持って偏見を捨てて見てみても、やはり面白そうに感じる(完全に偏見を捨てきれていないという可能性は大いにあるが)。
これに関して三つの仮説(要素?)が挙げられる
一つ目は「過去の空気も一緒に味わっているから」である。多くの人がそうかは知らないが、僕は過去の辛い記憶を思い返しても嫌な気持ちにはならない。過ぎてしまった事だし、そもそも嫌な事は忘れやすいタチなのかもしれない。しかし楽しい記憶は沢山覚えていて、思い返すと「あの時は楽しかったなあ」と懐古厨の如く懐かしみ手を伸ばしてみたくなる(これ自体が過去の美化だけども)。
こんな風に過去の空気に触れると懐かしくなるもんだから、過去のアニメを見ると間接的に過去の美化に触れて、そして面白そうに感じるのではないか。
二つ目は「時の試練に耐え残った作品だから」である。そもそも本当につまらない、心に残らない作品というのは覚えてさえいないんじゃないだろうか。そして覚えていたという事は何かしら「心に残る部分があった」という事になる。
時の試練という言葉はどこかの新書で見た言葉で、本来はゲーテとかニーチェだとかそういったはるか昔の書の事を指すのだけど、五年や十年前のアニメに言っても同じだと思う。
三つ目は「自分の変化あるいは成長」である。当時はわからなかった哲学的メッセージだとか、キャラの気持ちを必要以上に想像してみたりだとか、そういった自分の変化によってわかる新たな「魅力」の発見によって過去の作品が面白そうという感想を抱くのだ。
これはなかなかに信憑性のある仮説だと思う。当時はOPで糞アニメと判定し、やべえ見るアニメ間違えたかな……と思うようなキルミーベイベーでさえ、シュルレアリズムを通り越したニヒリズムなギャグだと考えれば、それなりに肯定出来る気がする。
と色々書いてみたけど結局のところ自分が懐古厨なだけなのかもしれない。今でも高校が舞台の教室に夕日が射すような青春小説を書きたいんじゃあ~。当時考えた先輩キャラのヒロインよりも、四歳以上も年上になったけども、あの人は自分よりも深遠な考えを持っていて、今でも導いてもらいたいという気持ちが残っていたりする。現にたまに想像の中で先輩と会話してるけども、やっぱりちゃんと作品にして世に出したいなあって気持ちがあるんだなあ。
後半は本当にチラシの裏になったなあ。今日はおしまい。
2013年2月26日火曜日
1day 涼宮ハルヒは名作だったなあ
1day
大学生中に小説家になりたかったけれども、就職活動に追われて何も書いていない日々。
毎日何かを書かないと筆力が落ちるとかどうとか昔聞いたので、チラシの裏、便所の壁の様にとにかく毎日1記事以上書いていこうと思う。
とにかく1日空いた時点でこのブログは終了である。
一日目のチラ裏 ~涼宮ハルヒは名作だった~
いきなりサブカルのお話。ひょんな事から涼宮ハルヒのMADを見ていた。自分が中学の頃にライトノベルを読んで、その面白さにどハマりした作品だ。
有名な作品ゆえににわかオタやミーハーの聖書みたいな位置付けになっているけど、最近はそういった話しも聞かず、大学の最近アニオタを開花させつつある後輩に「涼宮ハルヒは観た方がいいよ」といったら「え、名前は聞いた事ありますけどなんですかそれ」という言葉がかえってきた。
もう十年近く前の作品だし、過去の名作というやつになってしまったのかと思うと自分の年齢を恐ろしくも思う。
ハルヒと言えば当時は萌えだのハルヒダンスだのが流行っていた。そしてハルヒのキャラもツンデレの代表格の様に扱われ(ハルヒはツンデレでないという意見もあって自分もそれに賛成)、長門がポスト綾波として地位を獲得していた。
何も東浩紀の様にサブカル論を語りたいわけではない。ただ今になってハルヒを見返してみると、「完成」されていた作品だと思った。
一定のキャラ萌え、一定のSF要素、一定の面白さ。そういったものがバランス良く入っていた。一番好感が持てるのが出て来るヒロイン達が主人公であるキョンに惚れてるか分かり辛いという所だ。惚れているという視点で見れば、ハーレムラノベの様に見える。しかし惚れていない、顔を赤らめても一時の思い違いといった視点で見れば、そうかもしれないと頷く事も出来る(消失の長門は除いて)。 そういった読者の想像に任せる余地を残してあるのもまた「完成」されていると思うのだ。
昨今のラノベではヒロインがベタ惚れだと一瞬でわかる。それを主人公が鈍感や難聴スキルを発揮してハーレムを築いていくのだが、もちろんそういう作品も悪くはないが供給過多である。
しかしなんというかそういうラノベは、奥ゆかしさが無いのだ。例えば有名な夏目漱石の「こころ」で言うと、お嬢さんが先生に惚れているのはわかるけども、そうじゃないかもしれない。Kに取られるかもという不安もある。武者小路の「友情」に至っては、主人公の事好きなのかな?と思ったら全然脈無しどころか邪魔と思われている始末である。
こういった駆け引きというか奥ゆかしさがキャラや物語に魅力を与えるのではないだろうか。(常識的に考えてハーレムラノベのベタ惚れヒロインって淫乱ビッチにしかみえんよな)
情報を開示させすぎているのだろうか。読者層が中高生なのである程度開示させるべきなのはわかる。しかし中高生を舐めすぎではないだろうか。例えば依子というヒロインがいたとして、主人公がヒロインの恋心をくすぐるような言葉を言ったとする。以下がそれに対する反応の比較である。
→ 依子は顔を赤らめもじもじしている。なんだろうか、トイレだろうか。
「どうかしたのか?」
「もう、鈍感なんだから……」
というキャラよりも
→ 依子は唇に指をあて、夕日が射し込む窓に顔を向けた。
「どうかしたのか?」
「んーん、どうもしない」
と後者の方が萌えないだろうか。萌えないだろうか。
ともかく言いたい事は「開示させすぎた情報は想像の余地を奪い魅力が無くなる」という事である。
そういった点で涼宮ハルヒはキャラの気持ちだけでなく世界観も想像の余地を残していている。ゆえに名作だったんだなあと今さらながらに思うのであった。
チラ裏終わり。
大学生中に小説家になりたかったけれども、就職活動に追われて何も書いていない日々。
毎日何かを書かないと筆力が落ちるとかどうとか昔聞いたので、チラシの裏、便所の壁の様にとにかく毎日1記事以上書いていこうと思う。
とにかく1日空いた時点でこのブログは終了である。
一日目のチラ裏 ~涼宮ハルヒは名作だった~
いきなりサブカルのお話。ひょんな事から涼宮ハルヒのMADを見ていた。自分が中学の頃にライトノベルを読んで、その面白さにどハマりした作品だ。
有名な作品ゆえににわかオタやミーハーの聖書みたいな位置付けになっているけど、最近はそういった話しも聞かず、大学の最近アニオタを開花させつつある後輩に「涼宮ハルヒは観た方がいいよ」といったら「え、名前は聞いた事ありますけどなんですかそれ」という言葉がかえってきた。
もう十年近く前の作品だし、過去の名作というやつになってしまったのかと思うと自分の年齢を恐ろしくも思う。
ハルヒと言えば当時は萌えだのハルヒダンスだのが流行っていた。そしてハルヒのキャラもツンデレの代表格の様に扱われ(ハルヒはツンデレでないという意見もあって自分もそれに賛成)、長門がポスト綾波として地位を獲得していた。
何も東浩紀の様にサブカル論を語りたいわけではない。ただ今になってハルヒを見返してみると、「完成」されていた作品だと思った。
一定のキャラ萌え、一定のSF要素、一定の面白さ。そういったものがバランス良く入っていた。一番好感が持てるのが出て来るヒロイン達が主人公であるキョンに惚れてるか分かり辛いという所だ。惚れているという視点で見れば、ハーレムラノベの様に見える。しかし惚れていない、顔を赤らめても一時の思い違いといった視点で見れば、そうかもしれないと頷く事も出来る(消失の長門は除いて)。 そういった読者の想像に任せる余地を残してあるのもまた「完成」されていると思うのだ。
昨今のラノベではヒロインがベタ惚れだと一瞬でわかる。それを主人公が鈍感や難聴スキルを発揮してハーレムを築いていくのだが、もちろんそういう作品も悪くはないが供給過多である。
しかしなんというかそういうラノベは、奥ゆかしさが無いのだ。例えば有名な夏目漱石の「こころ」で言うと、お嬢さんが先生に惚れているのはわかるけども、そうじゃないかもしれない。Kに取られるかもという不安もある。武者小路の「友情」に至っては、主人公の事好きなのかな?と思ったら全然脈無しどころか邪魔と思われている始末である。
こういった駆け引きというか奥ゆかしさがキャラや物語に魅力を与えるのではないだろうか。(常識的に考えてハーレムラノベのベタ惚れヒロインって淫乱ビッチにしかみえんよな)
情報を開示させすぎているのだろうか。読者層が中高生なのである程度開示させるべきなのはわかる。しかし中高生を舐めすぎではないだろうか。例えば依子というヒロインがいたとして、主人公がヒロインの恋心をくすぐるような言葉を言ったとする。以下がそれに対する反応の比較である。
→ 依子は顔を赤らめもじもじしている。なんだろうか、トイレだろうか。
「どうかしたのか?」
「もう、鈍感なんだから……」
というキャラよりも
→ 依子は唇に指をあて、夕日が射し込む窓に顔を向けた。
「どうかしたのか?」
「んーん、どうもしない」
と後者の方が萌えないだろうか。萌えないだろうか。
ともかく言いたい事は「開示させすぎた情報は想像の余地を奪い魅力が無くなる」という事である。
そういった点で涼宮ハルヒはキャラの気持ちだけでなく世界観も想像の余地を残していている。ゆえに名作だったんだなあと今さらながらに思うのであった。
チラ裏終わり。
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